昭和三十九年十一月十六日 朝の御理解


 神様の働きが無限のものであり、その無限の力を持っておいでられる神様ということが分かれば分かるほど、お願いをする事、お縋りをする事多い事。神様の働きが無限であること。限りがないという事。その限りのない働きを分かれば分かるほど、お願いをする事のお縋りをする事の多い事。こんな事までお願い出来んだろう。いくら神様でんそんな事をお願いしたちゃでけるもんかという間は、私は神様のその無限を知らないからだと。神様の無限の力というものを分かれば分かるほど、お願いすること多いのであり、お縋りすること多いのである。
 信心する者の真の神徳知らぬ事と、信心しておっても、神様の真の神徳というものを知ならい。真の神徳が分かれば分かるほど、お願いする事、お縋りする事が多い。限りなくお願いする事は、限りなく願う事は、神様の無限を知れば知るほど、そうである。そしてその無限の中に知るものは、神様の氏子に対する無限の愛である。限りない私どもに掛けられる愛情である。言うなら限りない神愛を知る。信心をする者の真の神徳を知らぬ事と。真の神徳を分からしてもろうたらお縋りしなければおれない事ばっかりであり、お礼を申し上げなければおられない事ばっかりであり、又お願したい事ばっかりである。お縋りしなければおられんのであり、お縋りしたい事の多いのに驚く。
 こんな事までお願でけん。こんな事お願したって言ううなものではない。それは神様の無限の力を知らないからである。神様の無限の力が分かれば分かるほど、分からしてもらうのは、神様の無限の愛である。神愛である。そういう神徳の中に、無限の愛の中に私どもがあっても、その無限愛を知らず悟らず、ようおかげも願えず、おかげも頂けず、それでは神様はお喜びにならん。神様は限りなく願わせて頂く事を限りなく聞き届けて下さる事のために、私達が限りなく改まらして頂かなくてはいけない。
 例えばデパートなどに参りますと、たくさんな欲しいものが一杯である。まあー言うなら、こりゃ素晴らしいなとこういうものを家にも一つ買うたらなと言うようなものがいっぱいデパートには山積りされておる。けれどもそれをただで貰ってくるわけにはいかん。その欲しいなーと思うものが本当に欲しいと思うならばそれに対する、引き当てというものをもって行かなければいけない。あのデパートに山積みされている欲しいと思うものがみんな金さえ持って行ば買われるとにと思う。神様の真の神徳の世界には、私どもが欲しいと欲する一切のものがお持ちになっておられる。けれどもそれを私どもが真の信心をしなければそれを頂くことはでけん。
 いわゆる真の信心とは、真の信心とはという真の信心を分からしてもらうために、私どもは本気で教えを頂いて真の人にならせて頂く。真の人にならせて頂こうというところに、自分の真ではない、真の人間ではないことが分かってきて、そこに改まっていこうという意欲が生まれてくる。改まらしてもらおう。改まらしてもらおうということ。改まらなければ、改まらなければ、改まるという言わば現金です。私はデパートの商品を買うてくるように、神様のデパートと言うて申しましょうか、山積みされておるところのおかげというものを、改まりという現金で買わして頂くということ。
 これは欲といや欲でしょうけれども、それは私どもの言うなら本能とでも言うでしょうか。限りない欲望と、もちろんその欲望というても本当の欲望。ただ自分の我が身可愛さだけの欲望ではない。言うなら真実の助かりという欲望である。助かりたいという欲望がある。この助かりたいという欲望は限りがないのである。願うことの多い事。お縋りさせてもらわなければならん事の多い事。そういう例えば願うとか縋るとかいうような事でも、だんだん言うなら俗っぽい事から商売を繁盛させて下さいとか身体を治して下さいとか言ったような俗っぽい願いから、もっともっと高度な願い、その高度な願いが私どもの心の中にそれこそ雲のように広がっていく。広がってくる。
 それは真の神徳が分かれば分かるほど神様の無限愛が分かれば分かるほど、そういう心が開けてくるのである。そしてそこに思わして頂くのは神の無限愛であり、いわゆる神愛であり、その無限愛を自分の身にひしひし感ずるのが神徳を感ずるのであり、神徳が分かってくるのである。そしてその事が分かって行けば行くほど、無限に限りなく改まっていこうと改まっていきますからという改まらしていきますからという、もう改まりの心が強うなてくる。信心する者の真の神徳を知らぬ事とこう仰る。私達がどの程度に真の神徳を知っておるかと皆さんの心の中に一つ自問して見てごらん。
 信心する者の真の神徳を知らぬ事とこう仰る。その真の神徳を分からしてもらえば分からして頂くほど、頂きたいものがたくさんある。神徳の中にそれは、私どもが限りなく改まらせて頂くと言うこと。だから私は真の神徳を知らぬ事と仰るその真の神徳が分かっておる程度の私達がどれほど熱意を持って改まらして頂こうという心が私どもの心にあるかないかということで分かるのです。願う事はいっぱいけれども、自分の心の中に限りなく改まっていこうという熱意がないならばです、それはもう真の神徳を知らん証拠である。 真の神徳が分かったら、改まらなければおられん。改まらにゃ恐い。改まらなければ、私どもの願いは成就されない。改まるというお金を持って行かなければ、品物は買われないと。デパートに買物に行くにも、お金を持って行かなければどんなに山積みされておる商品でも持って帰ることはでけないと分かるようにです、信心の世界、神徳の世界、神様の無限力というものが分かれば分かるほどです、私どもが無限に限りなく改まっていこうと、改まらして頂かなくては、いや改まらなければ、それは買われない。持って帰られない。自分の物にすることはでけないと。
 そしていよいよ分からして頂くのは、神様の無限愛であり、神様の神愛である。神様が氏子信心しておかげ受けてくれよとこう仰るのは、もう氏子改まっておかげ受けてくれよという事である。その改まりというのは限りがない。氏子改まっておかげ受けてくれよ。改まるという現金で、私のここに並べてある山積みされてあるおかげを受けてくれよという事である。信心する者の真の神徳を知らぬ事と本当にそんなに神様の前にいっぱいおかげ。私どもが欲する一切のものが山積みされているかということはです、知っているか知っていないかという事。神様はどんな事でも、おかげ下さる事はでけるんだと。どの様なおかげでも頂きたいために、私どもは本気で改まらなければならないという。どうぞ氏子信心して、どうぞ氏子改まっておかげ受けてくれよと信心する者の真の神徳を知らぬ事と真の神徳と。
 真の神徳が分かれば分かるほど、真の神徳が分かれば分かるほど願う事はいっぱいだということ。願う事もう雲のように広がっていくということと同じにです、?以上願うことが成就せねばならん。願っておる事が頂かしてもらわねばならんと思う時に、これを一生懸命働かにや働いてお金を儲けにやというような気持ちと同じように、いよいよ改まっていかなきゃならんと言うことを似って、それを頂かせて頂こうという意欲が強うなってくる。そして改まる事によって、それを頂くこつとする。そういう中にいよいよ分かるのは、神愛であるという事。はーあ神愛というのは、氏子信心しておかげ受けてくれよということなんだけれども、その氏子信心しておかげ受けてくれよという事は、氏子改まっておかげを受けてくれよという事である。
 いかに私どもの上に神様がです、真の人間にならして頂くという事を願っておられるかと。そして神様としても真の人間にならして頂くことに努めるという事によってです、おかげを下さる事がでける。それは神様の願いも思いも限りがない。それを私どもは神愛という。無限愛という。そこで神様は無限に下さろうとするおかげ、私どもが無限に改まっていこうというもの。そこに私は信心する者の真の神徳を知らぬ事と仰るその神徳を分からして頂く。
 私はね、今日の御理解はね、皆さん分かられたか分からないか知らんけども、私の心に繰り返し繰り返し頂いていることです。真の神徳が分かれば分かるほどです、真の神徳が無限であると分かれば分かるほどこれはもう限りなく改まっていく以外にはないなと。そして改まっていく事が、少しでも改まらして頂くことが実現していく。そしてそこに分からしてもらうのが、神愛だということです。ほうー神様はもう本当もう玉のような氏子、玉のようになることだけを私どもに願っておられるだなという事です。
 私どもはもうやっぱり、祈るところ、目指すところは、この方の事を生神生神というけれども、皆もこのようなおかげを受けられると。生神とは、神がここに生まれるということであると仰る。そういうおかげが皆も受けられると仰る。そういうおかげを受けてほしいと願っておられるのであり、そういうおかげを又頂かしてもらおうという願いの元に、お互いの信心が進められていかなければならん。いよいよ神徳を分からしてもらい、無限の神愛を分からしてもらい分かれば分かるほど、いよいよ私どもは改まっていかなければならないという事を私は痛感する。
 そりゃもう私の願いというものは、もう非常にたくさんある。私は今朝そんな事に、自分ながら驚いてしまった。しかもああいう願いがその願いが又願いを呼ぶ。それは広がっていく雲のように私の心の中に願いの大きい大きいというか、願うことの多い事、大きいことに驚く。そして私の心の中にいよいよ改まらして頂こうという祈りという願いがです、大きくそれこそ雲のように広がっていく。そして答えに分からして頂くことは、はあーこれがこういうこれが神愛だということ。私の心の中に限りなく改まらして頂こうという気が湧くという事がです、神様は本当に、私どもにいわゆる金光大神というかね金光大神の境地というか、そういう願いを私どもが持たせて頂くという事をお喜びであり、そこを願わせて頂くところの筋、そして初めてその氏子の上に神愛を知った氏子とか神徳を悟った氏子として神様喜んで下さるという風に思います。
 皆さんまあー私が申しております事は、分からないかどうか知らんけども、いろいろ心の中に願う事あろうと思う。願いの内容はともかくとして、果たして皆さん心の中にその願いと同じに限りなく改まって、その願いと同じような勢いでです、改まっていこうという願いがあるならば、皆さんそれは必ず神徳を知っていかれておるからである。もし願う事はいっぱいあるけれども、改まるという事を、意欲願いというものが薄いならね、それは神様に出来るだけごまかしてそのおかげを頂こうとしておるようなものであると悟らなければなりません。デパートの品物をです買ってさえおきゃよい。買って自分のものにするために、お金を払わなら掛けで買ってくること願っておるような言わばずるい考え方である。
 それはなぜそういう事になるかというと、真の神徳を知らぬからである。真の神徳が分かれば分かるほど改まらなけければおられない。改まらなければ恐い。同じに願う事は、雲のように私どもの上に縋らなければならん事はあるのであり、又願わせて頂く事を似って神様は喜んで下さるということ。デパートがたくさん売りよるがとこう思うのと同じようにです、神様が持ってござるたくさんのものをです氏子がもろうてくれることを願っておられる。それは改まるという事のまあー言うなら、お金と同じようなものであるから、その改まるという事をもってそれを買わしてもらう。
 信心する者の真の神徳を知らぬから、本気で改まろうとしないのである。改まらして頂くおかげを、改まらして頂こうとする意欲をいよいよ強うさせて頂かなければ真の神徳はいよいよもって頂けない。分からない。信心する者、真の神徳知らぬ事と仰る。おかげ頂きました。